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「はい。
「お父様ではない。お前は、立派な騎士爵家の跡取りとしての作法を身につけよ! これからは、
「はい! 父上!」
「よろしい!」
『セリーナ・フォン・グレイヴ』―「セリウス」と呼ばれたこの少女の本名である。彼女は、グレイヴ騎士爵家の一人娘で、幼児期は魔除けのため男児の服装で、その後は、爵位存続のため、男として育てられていた。
八歳となりグレイヴ騎士爵家が仕える
「セリウス! 決して女であることを悟られてはいかんぞ。騎士爵家の位は男でなければ継げんのだ。跡継ぎに男子がいないとわかればグレイヴ家は断絶なんだ」
「分かっております。父上」
***
レーヴァンティア王国
「気を抜くな、セリウス」
父の低い声に背を押され、彼女はぎこちなく胸を張る。やがて、館の大扉が開かれる。
現れたのは、セリウスと同じくらいの背格好の少年。深い蒼の瞳に長い睫毛、陽光を浴びて金色に煌めく髪――その姿はまるで絵画から抜け出した美少年だった。「グレイヴ騎士爵殿、よくぞお越しくださいました」
柔らかな声で礼を述べるその少年こそ、リヴィエール公爵家の嫡男、アラン・リヴィエール 八歳である。「おお、アラン様。ご健勝そうでなにより」
父が膝を折り、恭しく頭を垂れる。セリウスも慌てて倣い、膝をついて小さく礼をした。だがアランは近寄ると、屈んでセリウスを覗き込んだ。蒼い瞳が、幼き「少年(女)」を射抜く。
「君が、セリウス殿か。グレイヴ騎士爵家の跡取りだと伺っている」「は、はい! アラン様!」
声が少し裏返り、慌てて咳払いをする。アランはふっと微笑んだ。
「……緊張しているの? 大丈夫だよ。僕も最初に父の隣で挨拶をしたときは、手が震えて仕方がなかった」その微笑は、幼いながらも気品と余裕を漂わせる――だがセリウス(セリーナ)の心臓は、別の意味で大きく跳ねた。
(なんて……きれいな人……!)男として振る舞わねばならぬことを思い出し、慌てて背筋を伸ばす。
「わ、私は大丈夫です! ……立派な、騎士爵の跡取りとして!」アランはその言葉をじっと見つめ、少し口角を上げた。
「その意気だ。僕もいつか、この広い領地を継ぐ身。互いに励み合える仲になれるといいね」蒼い瞳に真っ直ぐに見据えられ、セリウスは思わず視線を逸らす。胸の奥に、得体の知れない熱がこみ上げていた。
アランとアラン付きの執事の先導で館の奥へと通されると、重厚な扉の前で足を止められた。
扉の両脇には槍を携えた近衛騎士が立ち、全身から張り詰めた気配を放っている。「父上はこの先に」
アランが静かに告げ、片手で合図すると扉が開かれた。そこは広々とした謁見の間。赤い絨毯が一直線に敷かれ、その先の玉座に、一人の威厳ある男が腰掛けていた。
黒髪に混じる白髪、整えられた髭、鋭い鷲のごとき眼光――レーヴァンティア王国
「グレイヴ騎士爵殿。久しいな」
低く響く声に、父はすぐさま膝をつき、深々と頭を垂れた。 「はっ! 公爵様のご威光の下、我が家も変わらずお仕えしております。本日は、嫡子セリウスをお目通り願いに参上仕りました」セリウスは、喉がきゅっと締め付けられるように感じた。小さな手を強く握りしめ、父の隣に並んで膝を折る。
「……セリウス・フォン・グレイヴ、でございます。初めての御前、恐れ多く存じます」公爵の視線が、少年を装った少女に注がれた。鋭いが、どこか試すような眼差しだった。
「ふむ。年の割には背筋が通っているな。目も曇りがない」
公爵はゆるりと顎を撫で、やがて玉座から立ち上がった。 「グレイヴ家は代々、我がリヴィエール家を支える忠勇の家柄。お前がその跡を継ぐというなら、いずれ我が嫡子アランを助け、剣を取って共に戦場に立つことになる」セリウスは必死に胸を張った。
「はい、公爵様! この命に代えても、御家に忠義を尽くします!」父の視線が一瞬こちらを鋭く刺し、次いで安堵の色に変わった。
公爵はわずかに笑みを浮かべる。 「よい心構えだ。――アラン」「はい、父上」
アランが進み出て、隣に並ぶ。「これよりは、折に触れてこのセリウスを屋敷に呼び、学問と武芸を共に学ばせよ。幼き頃より絆を深め、切磋琢磨することは、領地を治める礎ともなろう」
「承知いたしました」
アランが一礼し、ちらとセリウスに目をやる。その瞳には、からかいでも軽蔑でもなく、まっすぐな好奇心と期待の色があった。セリウスの胸が、不思議な高鳴りに包まれる。
(わ、私が……この方と共に学ぶ……? 私が女だという秘密を隠しながら……! さ、悟られてはいけない…………)「セリウス、これからは命を懸けて、アラン様に仕えるのだぞ」
「はい、父上! 私はアラン様を守る剣となり、傍らで共に修練し、共に学ぶことを、肝に銘じます!」
――その日、グレイヴ騎士爵家の一人娘は、未来を左右する大きな一歩を踏み出したのであった。
それからというもの、セリウスは定期的にリヴィエール公爵家の館に通うことになった。 大広間の奥に設けられた学習室で、アランと並んで机に向かう。「この地方の地形を覚えていることは、領地を治める領主や、その補佐を務める騎士・文官にとって当然の務めだ。セリウス殿、ここは何と呼ばれている?」
家庭教師の問いかけに、セリウスは緊張で汗ばむ掌を握りしめながら地図を覗き込む。「……えっと、これは《メイユの谷》、です」
「よくできました」
教師が頷く。隣のアランは涼しい顔で、さらに先の地名や名産品まで暗唱してみせた。「さすが、アラン様」
「覚えてしまえば簡単だよ。君もすぐ慣れるさ」 柔らかな笑みを向けられ、セリウスは胸の奥がくすぐったくなるのを誤魔化すように背筋を伸ばした。「はい。アラン様の手となり、足となって働けるよう、次回までには地名や名産品を覚えてまいります」
宣言どおり、セリウスは次の授業の日までに完璧に記憶してきた。その勤勉さには教師もアランも内心驚かされた。
中庭では木剣を手に、互いに打ち合う稽古も行われた。
「もっと腰を落とせ、セリウス! 腕に力を入れるな、全身で振れ!」 「は、はいっ!」セリウスは小柄な体を必死に支え、汗を滴らせながら木剣を振り下ろす。打ち込むたびに、骨に響くような衝撃が腕を襲う。
しかし、アランは一歩も引かない。軽く剣をいなすと、まるで舞うような身のこなしで次の構えに移っていた。
「悪くない。だが、剣先ばかり意識するな。視線を上げて、相手全体を見ろ!」「くっ……!」
セリウスは言われるままに視線を上げるが、その瞬間、アランの木剣が横から鋭く走る。 「うわっ!」 ガツン、と音を立てて木剣がはじかれ、セリウスの身体は芝生の上に転がった。「大丈夫か?」
すぐに差し伸べられるアランの手。セリウスは息を荒げながらも、その手を掴んで立ち上がる。 「だ、大丈夫です……! も、もう一度お願いします!」アランは口元に微笑を浮かべる。
「その気概はいいな。じゃあ次は僕に斬り込んで来い。全力でな」「は、はい!」
セリウスは渾身の力で木剣を振り下ろす。しかし、打ち込んでも打ち込んでも、アランは軽やかに受け流すだけ。鋭い突きも、横薙ぎも、全て見透かされたようにいなされてしまう。「まだ腕の力に頼ってる。腰から動きを繋げろ!」
「っ……!」歯を食いしばり、セリウスは必死に食らいつく。だが結果は同じ。何度も芝生に転がされ、肩や肘に擦り傷が増えていった。
それでも、倒れる度にアランは必ず手を差し伸べてくれた。
「よし、今の踏み込みは悪くなかった。あと半歩、踏み込みが深ければ僕の体勢を崩せていたぞ」 「ほ、本当ですか……?」 「本当だ。君は筋力では僕に敵わないけど、動きの速さは僕以上だ」セリウスの胸の奥に、熱いものが芽生えていく。
「……次こそ!」 「その意気だ。来い!」剣戟の音が響く中庭に、二人の声と息遣いが重なっていく。
やがて稽古が終わり、館を後にして帰路につく頃には、セリウスの身体は傷だらけで、全身から力が抜けていた。歩くだけでも苦痛を伴ったが――それ以上に、胸の奥では妙な誇らしさが燃えていた。
(アラン様は本当にすごい人だ。あんな方に仕えられる私は、なんて幸せなんだろう。……でも、私は「男」として振る舞わなきゃならない。女だという秘密を隠し通さなければ……。それでも、アラン様と共に学んでいられるのは嬉しい。アラン様を守れるくらい、もっと剣の腕を磨かなくては……)
日々の授業と稽古の積み重ねは、次第に二人の距離を縮めていった。
年は離れていない。だがアランは常に少し先を歩き、セリウスは必死にその背を追う。 その姿を、公爵も、グレイヴ家の父も満足げに見守っていた。***
季節がめぐり、セリウスとアランの修練の日々は、いつしか子どもの遊びを越え、実戦を意識したものへと変わっていった。
その頃――リヴィエール領の市井に、ある噂が流れていた。
南方の山岳地帯に口を開ける古代のダンジョン。その最奥には「性別を変える力を秘めた秘宝」をはじめ様々な魔道具が眠っているという。
(……もしその魔道具が本当にあるのなら、私は男に生まれ変われる。そうすれば、隠してきた秘密そのものがなくなる。もう、アラン様に嘘をつき続けなくてもいい……いつも怯えながら過ごさずにすむ)
セリーナは心の奥で、誰にも言えぬ想いを固く握りしめた。けれど、騎士爵家の跡取りとしての使命を考えれば、それを軽々しく口にするわけにはいかない。
だから彼女は決意した。――表向きは「強くなるため」、内心では「秘宝を得て男になるため」に、ダンジョン攻略を目指すのだと。ある日の稽古の後、セリウスは木剣を収めると、汗を拭いながらアランに切り出した。
「アラン様。……私は、もっと強くなりたいと思っています。剣も学問も、まだまだ足りない。だから……ダンジョンに挑んでみようと思うのです」
アランの表情がわずかに変わった。
「……ダンジョン、だって?」「はい。危険な場所ですが、実戦でしか得られない経験もあるはずです。来年、騎士養成学校に入学しますよね。そこで仲間を募り、ダンジョンでの試練を越え、剣の技を鍛えたい。それに、ダンジョンには、不思議な魔道具が眠っているとか? ダンジョンの宝を探す――そうすれば、今よりずっとアラン様のお力になれるはずです」
真剣な眼差しを向けるセリウスを、アランはしばし黙って見つめていた。
そして、ふっと息を吐く。「君は……本当に変わってるな。普通なら命を惜しんで避ける場所に、あえて踏み込もうだなんて」
その声には、否定ではなくむしろ興味と高揚が混じっていた。 「ダンジョンの宝探し。……いいだろう。僕も同行する。どうせ行くなら、誰よりも信頼できる相手と組んだ方がいい」「えっ、アラン様も……!? いけません。アラン様が危険なことなど――」
「なにを言ってるんだ、セリウス。……領主の嫡男として、危険を知り、恐れを乗り越えるのも、また積むべき経験、乗り越えておくべき試練だろう。それに……」
アランは片眉を上げ、笑みを浮かべた。 「君だけ強くなるなんて許せないよ」「で、でも……」
「それにセリウス、危なくなったら君が僕を守ってくれるんだろう?」
「はい。命に代えてもお守りします」
「なら、大丈夫じゃないか」
「く……」
「安全も考えて、実践を積むいい機会になると思うけどなあ」
「安全も考えて、実践を積む……わ、わ、分かりました。いつ潜るか、どこまで潜るか、どんな仲間を集めるか、――すべて私が計画を立てます。いいですね」
「任せるよ」
その瞬間、セリウスの胸に熱が走った。
(アラン様……! アラン様はこんな私を信じてくださる。でも私は、この胸に秘めた本当の理由を絶対に言えない……! なんて卑怯な女なんだろう。それでも、アラン様のために、必ず安全で実りある修行にしてみせる……)ダンジョンは古代文明の遺構とも言われ、魔獣や罠が待ち受ける死地。当然、二人きりで潜るのは無謀だ。実力ある仲間を揃えなければ、一歩踏み込んだ瞬間に命を落とす。
……となれば、必要なのは、腕の立つ剣士や罠に精通した者、そして回復の術を扱える僧侶や魔術師。やがて二人は騎士養成学校に入学することになる。そこでよい仲間が見つかればよいのだが、騎士養成学校は盗賊や僧侶や魔術師を育てる場所ではない。
騎士養成学校でそういった能力を持つ者を探し出すのが無理なら冒険者ギルドで探すことになるだろうが……。
(慌てることはない。これから騎士養成学校に入るんだ。探索できる時間も制限されるんだから、プロの冒険者はずっとは組んでくれないだろうし、その都度スポット的に同行する人間を探すのが限界だろう。できるだけ、騎士養成学校で探すことが望ましいな)
「騎士養成学校で仲間を探してから、ダンジョンでの探索を始めることにしましょう。騎士だけでのダンジョン探索は難しいです。罠を見抜ける者、回復ができる僧侶や、魔術師など……そうした特殊技能を持った生徒がいたら、仲間に勧誘しましょう。ただし、信頼できる人間に限りますが」
「分かった」
こうして二人は、まず騎士養成学校で仲間を探すことを決めた。
――ヴァルロワ学舎・翌夜。 その夜、ヴァルロワ学舎は静まり返っていた。 昼間の喧噪が嘘のように、校舎の灯りは消え、月光が石畳を淡く照らしている。 だが、誰も知らぬところで、もう一つの授業が始まっていた。「全員、聞こえるか?」 中庭裏の温室跡。セリウスたち《調査班》は通信魔導具を通じて連絡を取り合っていた。 アランの低い声が響く。「今夜の任務は学舎内部の監視記録の確認。帝国スパイが使った出入り経路を洗う。外部と通信している可能性のある教員リストも照合するぞ」「了解」 セリウスが頷き、懐の通信魔導具に手を触れる。 淡い光が灯り、フィオナの通信魔導具がそのデータを受信した。「こっちは南棟の通信回線を解析中。……おかしいわね、通常の魔力波が途切れてる。誰かが意図的に遮断した跡かしら」「遮断?」リディアが眉をひそめる。「誰かが監視を避けたってことかよ」 アランが静かに指示を出す。「フィオナ、解析を続けてくれ。セリウスとリディアは中央棟の研究室を調べてくれ。私とレオンは北棟の倉庫を調べる。オルフェは待機」「了解!」 それぞれが闇に溶けるように散っていく。 風が木々を揺らし、どこか遠くで猫の鳴く声がした。 ──中央棟・研究室前。 セリウスは慎重に扉を押し開けた。 古びた魔導機器と埃の積もった本棚。 誰もいないはずの部屋の奥で、淡い光が瞬いている。「……魔力残留反応。最近、使われた形跡があるな」 リディアが呟き、指先から小さな探査光を放つ。 机の上には、見慣れぬ印章の押された封筒があった。「帝国の……紋章?」 封筒の裏には、鷹の爪を模した紋様が刻まれている。 セリウスが息を呑む。「誰かが、ここで通信を――」 その瞬間、背後の扉が軋んだ。 反射的に剣を抜くセリウス。 だ
夜の王都郊外。 《ヴァルロワ学舎》の外れにひっそりと建つ旧研究塔、表向きは、すでに廃棄指定されて久しい。 だが、その地下には今も稼働中の装置がある――学長ヴァルターが手掛けた「魔導通信石」の試験機。 それこそが、帝国が狙う機密だった。「……静かすぎるな」 塔の影から様子を窺うアランが、低く呟く。 月明かりに照らされた古塔は、まるで眠っているかのように微動だにしない。「警備の巡回もいない。これは逆に不自然ね」 フィオナが目を細め、髪を耳にかけながら呟く。 風が草を揺らし、微かに金属の軋む音が響いた。「アラン、南側の窓が少し開いてます」 レオンが報告する。「何者かがすでに侵入した可能性が高いです」「……いくぞ」 アランの短い号令に、全員が頷いた。 セリウスとオルフェが前に出て、フィオナとリディアが後方から援護。 レオンは塔の外で警戒線を張り、アランが全体の指揮を取る。 塔の扉はすでにこじ開けられていた。 古びた階段を下ると、微かな機械音が聞こえてくる。 それは――通信石の動作音。「下だ。急ごう」 セリウスとオルフェは階段を駆け下り、地下の実験室へ突入した。残りの4人も後に続く。 そこには、漆黒のローブを纏った数人の影がいた。 中央の装置から魔力光が放たれ、転送陣がゆらめいている。「帝国の工作隊か!」 オルフェが叫び、剣を構える。「来たか……!」 スパイの一人が振り返り、セリウスに目を止めた。 それは――中庭で戦った覆面の男だった。 左足を庇うように構えている。「また会ったな、少年」 覆面の下から嗤う声。「せっかく見逃してやったのに。あれで止めていれば良いものを、ここまで知られては仕方ない。死んでもらうしかないようだな。今度は、我らが任務の完遂を邪魔
瞬間、鋭い風圧が頬を掠めた。 覆面のスパイが投げた短剣が、セリウスの耳元を通り抜け、背後の木の幹に深々と突き刺さる。 刃は淡く青い光を帯びていた――毒か、あるいは呪符付きの暗器。 (速い……! こいつ、訓練された暗殺者だ) セリウスは反射的に身を低くし、マントを翻す。 闇の中で、草木が擦れる音と共にもう一つの影が動いた。 風のような足取り。姿を見失ったと思った瞬間、背後に殺気が迫る。「っ――!」 咄嗟に剣を抜き、振り返りざまに受け止めた。 金属がぶつかる乾いた音が夜気を裂き、火花が散った。「やるな……訓練生の剣じゃない」 覆面の男が一歩退き、月光の下で構え直す。 その動きには無駄がない。軍人というより、暗部――影の諜報員のそれだ。「お前……帝国のスパイか」 セリウスの問いに、男は笑った。 「知っているか。なら話が早い。王国の未来はすでに帝国の掌の中だ」 言葉が終わるより早く、男の手首が閃いた。 短剣が三本、扇状に飛ぶ。 セリウスは横跳びでかわし、一瞬の隙を突いて間合いを詰める。「せーい!」 セリウスの横薙ぎを後ずさり、笑いながら男は躱す。 連続技で追い詰めようとするが、男はまるでそれを読んでいたかのように、煙玉を放って視界を奪った。 白い煙が広がり、空気がざらつく。 (視界が……!) 次の瞬間、横腹に衝撃。 蹴りを受け、体が石畳に叩きつけられた。肺の空気が抜ける。「ぐっ……!」 だがセリウスは即座に転がり、剣を構え直した。 その瞳には恐れよりも冷静な光があった。「……いい動きだ。訓練生にしては上出来だな」 スパイが笑いながら近づく。 その足音のリズム――セリウスは気づいた。 (……左足に重心。片膝を少し引いている。前の蹴りで筋を痛めたか) ほんの一瞬の観察をもとに、セリウスは決断した。 敵が踏み
その夜。 学園では創立記念日を祝う晩餐会が開かれていた。 大食堂には煌びやかな灯りが揺れ、教員と上級生たちが談笑の声を上げていた。 壇上には白髪の老学長ヴァルターが立ち、穏やかな笑みを浮かべて杯を掲げる。「諸君、この学舎が百年の歴史を刻めたのも、若き学徒たちの努力あってのことだ。未来を担う者たちに、祝福を――乾杯!」 杯が一斉に掲げられ、拍手と笑いが広がった――その瞬間。 カラン、と音を立てて、老学長の手からグラスが落ちた。 「……学長!?」 次の瞬間、ヴァルターは苦しそうに胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。 会場は騒然となり、教師たちが駆け寄る。 「毒か!?」「誰か、医療班を呼べ!」 剣術教官であるアランデル老教士が即座に走り出し、学園医務室から治癒魔法の使い手を呼び寄せる。 やがて、老学長は一命を取り留めた。 しかし意識は戻らず、医務官の診断はこうだった。 「体内からは毒の反応が検出されませんでした。ただし――神経を一時的に麻痺させ、幻覚を引き起こす薬物の接触痕が残っています」 その場にいた全員が息をのむ。「……つまり、飲んだワインには毒がなかったということか」 アランの言葉に、セリウスがグラスを手に取る。 私は慎重に縁に付着物がないか、解析を行った。「……微量の薬反応。これは幻覚毒《イルシオン》です。皮膚に触れるだけで幻覚と麻痺を起こす劇薬。飲まなくてもこうなります」「まさか……グラスの縁に塗られていたってこと?」 リディアが息を呑む。私はゆっくり頷いた。 その時、レオンが小声で言った。 「でも、どうやって? グラスは配膳前に全員分まとめて並べられてたはずでしょう。狙われたのが学長だけなら、特別な細工が必要です……」 私は顎に手をやり考え込む。 (グラスを取り違えず、学長の手元に届くようにするには――配膳係が仕組んだとしか思えない)「……配膳を担当したのは誰?」 アランが問い詰めるように
武闘大会も終わり、落ち着きを取り戻しつつある騎士養成学校《ヴァルロワ学舎》。 セリウスたちは、日々の授業と訓練に戻り、穏やかな学園生活を取り戻していた。 訓練場では木剣の音が響き、魔法演習場には詠唱の声が流れる。あの熱狂的な大会の日々が、もう遠い過去のように感じられるほどだった。「ふぅ……今日はこれで終わりかな」 セリウスが剣を納め、額の汗を拭う。 周囲では、レオンが魔法の制御練習を終え、オルフェは筋トレの締めに腕立てをしていた。「ようやく、静かな日常に戻ったな」 リディアが言うと、オルフェが笑う。 「静かすぎて退屈だな。俺はそろそろ外で暴れてーぜ!」「まったく……君は戦うことしか考えてないのね」 フィオナがため息をつきながらも微笑む。 その穏やかな空気に包まれた訓練場の門前で、突然、軍服を着た伝令の兵が駆け込んできた。「《アラン・リヴィエール》殿、並びにその仲間の方々に通達!」 訓練場に響き渡る声に、生徒たちのざわめきが広がる。「通達?」 アランが首を傾げると、兵士は胸を張って告げた。 「王国軍総司令、ゼルディア将軍閣下より召喚命令がございます! 本日夕刻、王立軍本部にてお待ちとのこと!」 訓練場の空気が一瞬で引き締まる。 ゼルディア将軍――王国軍を束ねる最高司令官であり、王都防衛の英雄。 生徒どころか、地方の騎士ですら直接言葉を交わすことなど滅多にない。だがセリウス達はオークションの一件で、将軍から、後日、王国から依頼が届くだろうと告げられている。「ゼルディア将軍……とうとう来たか!」 リディアが驚きを隠せずに呟く。「なにか……あったのかもしれないね」 レオンの声が低く響く。「この前言ってた王国からの特別任務……ってやつか」 オルフェがわくわくしたように拳を握るが、セリウスは静かに息を吐いた。「とにかく行こう。命令なら従わないわけにはいかない」 アランが、四人を見回していった。
大会の喧騒が過ぎ去って数日。 《ヴァルロワ学舎》の中庭には、ようやく落ち着いた空気が戻っていた。 澄み渡る秋空の下、紅葉がはらりと舞い落ちる。 ベンチの上では、セリウスとリディア、オルフェ、フィオナが昼休みを楽しんでいた。「いや〜、ようやく終わったな。大会。見てるだけでも疲れたぜ」 パンをかじりながら、オルフェが伸びをする。「おまえは一回戦で全力出しすぎたんじゃねーの」 リディアが呆れ顔で言うと、オルフェは苦笑いを浮かべた。「だって相手、めっちゃ剣速速かったんだぜ。油断したら即終了コースだったんだ」 隣で紅茶を飲んでいたフィオナが、静かに笑う。 「でも、見事な戦いぶりでしたわ。観客席でも拍手が起きていましたもの」「お、おう……そ、そうか? あはは。フィオナがいうならそうなんだろう」 褒められて、オルフェは耳まで赤くなる。オルフェは何度も勝ち抜いたフィオナの事を認めているようだ。彼にとっては、強さこそ正義である。 セリウスはその様子を微笑ましく見守りながら、手元の資料を閉じた。 「これで次は、年末の筆記試験か。気が抜けないなー」「セリウスは真面目すぎるなあ。少しは休まないと」 リディアがそう言って、にやりと笑う。 彼の笑みは以前よりも柔らかく、《呪具の持ち込み事件》の緊張感が抜けた今だからこその穏やかさがあった。「でも、事件の時のことを思うと……こうして平和なのが一番ですね」 レオンが目を細めて呟く。「そうだな」 セリウスが頷く。 ほんの数週間前まで、教官が敵国の間者だったなんて信じられないほど、今の学院は穏やかだった。 それでも、誰もその事件を軽んじることはない。 皆、心のどこかに「何かを守るために強くなりたい」という思いを刻みつけていた。「……あ、そうだ!」 オルフェが立ち上がった。 「明日の振り替え休日に、みんなで街に行こうぜ! 大会お疲れ様会ってことで!」「まぁ、悪く